昭和54年 3月18日 朝の御理解●⑨ ⑨ ③⑨ ② ②⑪
                                  明渡 孝

 御理解第4節『此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる』


 まさかの折だけおかげを受けるということでなくて、常日頃、日々がおかげの世界にあり、お繰り合わせの中に日々が過ごせれれるおかげを頂かなければならん。そして、いつ何時何があるやら分かりません。いわゆるまさかの時に、いわゆる「金光大神、と言えば助けてやる」と仰せられる、そういうおかげを受けなければならん。
 「金光大神の言うことにそむかぬように」とある。金光大神は、どういうことを教えておられるかというと、もう生活全体が信心である。いわゆる、この方の行は、心行であり、家業の行だと。今合楽で言われておるこの心行。それから家業そのものが行だと言われるのだから、それを行として頂く日々でなからなければならない。それをまあ、合楽ふうに言うと、ね、「成り行きを大切にさして頂く」ということだと思う。
 昨日はあの、合楽会でしたから、(?)十二時近くまでもいろいろみなさんの発表を聞かして頂きましたが、そこの久保山さんの発表があっておりました。
 昨日は、たいへん忙しい一日で、御祝儀があったり、近所に人が亡くなられて、お悔みに行か、いわば、憂いごとがあったり、悲しいことがあったとこういう。ね。もうその中に、それでもやはり、昨日はみえておりませんでしたけれども、遅うからみえられて、ね、それでも万事お都合お繰り合わせの中に、まあ、昨日の合楽会にも出席されることができた。ね。もう、憂いの中にも、または、祝言ですかね、お祝いの中にも、もう生き生きと神様が躍動しておられるような感じがいたしました。
 たいがいのものが、「昼は御祝儀、夜はお悔みに行かなきゃならなかったというようなことで時間も遅くなるから、もう今日はご無礼しよう」というところでしょうけれども、そのご無礼しようというものではなくて、それから先を大事にしておられる。言い訳をすりゃ言い訳ができるような中にも、やはり信心を、いうなら成り行きをいよいよ大事にしておられる。
 この方の私信心は、もちろんこちらへ移ってからのですから、まあ七・八年というところでしょうか。近くでもございますから、日参がございますけれども、もうとにかく、合楽の信心の、まあいうならば、肝どころと。ね。
 今日の御理解でいうなら、生神金光大神が教えて下さる一番肝心のところを頂いて、日々の修行の上に守っていかれる。という生き方。「あれもこれも」というて、巧者になるとか詳しくなるということじゃないけれども、とにかく、毎日ここでお届けをされることは、「今日も親先生、どうぞ成り行きを大切にさして下さい」これなんです。ですから、起きてくる様々なことがこの、やっぱり家のいろいろな問題があります。子供さんもいくらもおられますから。
 去年でしたかね、ご長男が奥さんをもらわれた。けれどもその、信心は家の内でお母さんが一人ですけれども、その、だんだんお母さんの信心を見習うて、子供達が付いてくるようになった。最近は嫁子も付いてくるようになった。というのが、長女が北野に嫁に行っておられますが、その子供さんをこちらへしばらく預かっておられた。二度目ができた時に、あちらの奥さんが懐妊のおかげを頂いて、ところがその、逆子になってある。始めその子で、たいへん心配をするし、なかなかその戻らない。まあ始めてですから、まあ非常に心配をされる。けれども、「ちゃんと神様にお願いしてあるけんよかですよ」と言うても、それが相手に信心がないから通じるはずもない。
 そういうある日に、ちょうど朝、その孫さんを預かっておられる、その孫さんが、どげん休ませても、どうしてもねその、うつぶかせになられるわけです。ね。それでもう、せいこさんちいうから、「せいこがどげんしてもその、うつぶせになって寝ますから、どうぞ、普通に休まれるようにお願いをして頂けますように」というお願いがあった。
 そしてその、お嫁さんといろいろ話しておる時に、またその逆子であることをたいへん心配されるから、ちょっとあの、「この人を見てみなさい」と、ちょうどそこに子供が休んであった。昨日、私は親先生にお願いをし、お取次ぎを頂いて、うつぶせに寝るからどうぞおかげ頂きますようにちしたら、ちょうどその時に、おふむかせになって、うつぶせになっとったのが、おふむかせになって休んでおられるそれを見せながら、ね、例えば「うつぶかせになっとっとが、こうやって、いうなら表向きになっておる。だから、逆になっとるとば、神様が、また反対にしなさるようなことは、わけなか神様なんだ、この神様は」というわけなんです。「だから、あんたのこともちゃんとお願いしよるけん、いよいよの時には、ひょっとおかげ頂くよ」と言うて、まあおりましたら、昨日病院に行って診てもらったところが、正常になっとった。
 だからまあ、病院から早速電話が掛かってきて、「お母さん、おかげで子供が正常になっとった」というて、まあ喜んで、その主人になる人と一緒にお礼参りをさして頂いたけれども、親先生がお留守じゃったから、そのお礼を申し上げくれといったような、まあ嬉しいその、おかげ話を昨日なさいました。ね。
 もうほんとにあの、結局、「真の信心」ということをいう、「真の道におりながら、真の道を踏まぬこと」という、私どもはその真の道におりながら、真の道を踏まんでおることがどのくらいあるやら分からん。ね。それではまさかの折にという時の役に立たん。ね。そのまさかの折に、おかげが頂けれることのために、日常茶飯事の中に、生活そのものが信心であるようなおかげを頂いて、たてお憂えごとであろうが、ね、賀びごとであろうが、その喜びの中に憂いの中に、神様をはっきり頂いておかなければならんというのが、その成り行きを大切にしておるということその自体が、神様を間違いなく頂いておるということになるのじゃないでしょうか。ね。
 だからそこに、一緒になるようなこともなからなければ、その、いうならば、少し時間が遅くなられたけれども、合楽会にも遅から出てこれるというような、もう一日の上のことを、もう喜びのこと悲しいこと、そして信心の稽古のこと、もうみんながおかげを頂いていく。みんながご無礼するということがないようなおかげを頂いておられる。
 昨日、久富繁雄さんが発表しておられましたが、もうほんとに「合楽理念、合楽理念」と盛んに言われますけれども、合楽理念を、ほんとに日々の生活の中に頂いていかなければならんのですけれども、それがその、一日、先日、まあたいしたことはなかったのに、朝の、いうなら御祈念に参るとをご無礼した。そしたらすぐ夢を頂いて、ある所に行っておるけれども、行く所が結局寂しい寂しい所に着いたといったようなお夢を頂いて、もうほんとに、相済まんことだなぁと思うたというような発表があっておりました。ね。
 だから、寂しいことやら苦しいことやらに、行きつかなければならないもとは、もうちょっとしたこちらの油断がそういう結果になってるんです。だから、これはなかなか難しかと言うんじゃなくて、久保山さんじゃないけれども、どういう中にあっても、その成り行きそのものが神様のお働きなのだから、その成り行きそのものを有り難く頂こうという、そこの、いうなら一つ覚えでもよいから、ここんところに焦点を置いていくなら間違いがない。ね。
 憂いも悲しみも、そして家事万事の上に、そういう信心が家庭の上に現れてきて、最近では、息子さんと二人で毎日参ってみえる。そんなわけで嫁子も、神様の有り難いことが少しは分かり出して、主人と誘うて二人でお参りをしてくるようになったというようにです、もうほんとにたいしたことではない、些細なことのようであるけれどもその、金光大神の言われる、しかもそれが肝心のところ。間違いのないところというのがいくつもありますばい。
 けれども、いうならば「成り行きを大切にする・尊ぶ」ということは、もういよいよ合楽で言う合楽理念の、やはり芯所ともなるのですから、他に華々しいとか、派手なということはないけれども、これを頂き続け守り続けていくところに、一切が(がっちゃんふまん?)生き方が生活の上にきちっと現れてくる。ということになるのじゃないでしょうか。
 昨日は私、私自身が教えられ、私自身が感じたことでしたけれども、今、毎朝綾部さんとご一緒に、日田の中野さんが朝の、今までは、まあ自分のお願いがある時なんか、時々お参りになるというなくらいじゃった。ある問題を抱えておられますから、まあ日参が始まる。朝参りをなさるわけ。
 昨日ここで、たいへんいろんな宗教に関心をもっておられて、もうとにかく仏教のことなんかは、それこそ坊さんごと詳しいというお話です。それで、仏教は、もうこんなたいへんな大宗教の一つですから、教理教典といものも非常に深刻というか、深いというか広いものをもっております。ですから、まあ金光教なんかは、年数もまだ若いし、教えもたいしたことないような感じじゃなかったでしょうか。
 けれども、おかげを頂くということにおいては、「金光様は確かにおかげを頂く」という程度の信心から、日参が始まった。信心が分かったから日参じゃないけれども、日参をしておる内に御理解をだんだん頂くようになった。盛んに「合楽理念、合楽理念」というのを聞かれるので、そのことに関心を、昨日ここでお届けをされるんです。
 ●⑨「親先生、その合楽理念ということが言われるが、合楽理念とは、結局、一切が神愛というふうに分かることですか」とこう言われるんです。ですから、私は「そうです」私も、ね、一切が神愛ということはどのくらい言うじゃ分からん。けれども、合楽理念が一切を神愛と分かることだ、悟ることだとは、まだそういう言葉を使ったことがなかったんです。●⑨ね。
 ●⑨合楽理念を簡単に説明するなら、私は、それを聞いてから思ったんです。確かに、合楽理念は、もう一切が神愛と悟らして頂くことなんだと。だから、一切のことに合掌ができるんだ。それこそ、その中に成り行きを大事にするということも入ってくるわけである。●⑨ね。
 昨日は、幾人もの大学受験の合格御礼がございましたが、ある方の、自分の思うておる大学じゃない大学があった、合格した。だから、お参りされてもさほど嬉しもない、もう一年浪人しておられたけれども。「どこにでんよか、入れるんなら」と言いじゃったけれども、その自分の願いの大学ではなかったから、一つも感動がないです、お礼に出て来て言われるけれども。格別のお礼のあれもない。
 かというてならまた、いくつも受験させて頂いたけれども、次々とできなかった。一番最後に、それもその一番最後のそれがだいたいは本命の大学だから、ならこれでいっちょ頑張って、これでおかげ頂きゃいいじゃないの、と言うとったら、おかげでそれが合格のおかげを頂いた。それで、それもやっぱり電話で(お揃い?)、今朝お礼に出て来て、お礼に出たいちゅうて出てきとりなさると思うんですけど。
 もうほんとに、いくつもいくつも受けて、結局自分の願いというものが一番最後に成就する。してみるとその、「まただけじゃった。まただけじゃった」じゃなくて、これを「ご都合だ、有り難いんだ」というふうに成り行きを大事にして行くなら、その時点時点がお礼になってこなきゃならないはずなんだよね。自分の思うようにならなかったことだけが、大きくクローズアップして、心の中に響いてくる。
 自分の願いが成就しなければおかげでない、といったような思いではなくてです、一切が神愛と悟らせて頂いたら、「おかげだ」とこう頂けれるわけ。その「おかげだ」と頂けれるところに私は、心の安らぎがいつも頂けるとこう思うんです。ですから、もう確かに、一切、●③⑨合楽理念は「一切が神愛だ」と悟らして頂くことなんだ。ね。
 ところが、それを悟らしてもらうとか、分からして頂くことのために、いうならばいよいよ土の信心に極まった、という生き方ができなきゃならんということになるのです。ね。だから、結局本気で、いうならば土の信心、「黙って受ける」という信心ができていくなら必ず、ね、その後に「はあ、神様の、いうならばお計らいであった、ご神愛であった」ということが分かってくる。ね。
 それがだから、それがだんだん年季が積んでくるうちにです、どういうことが起こってきても「神愛に間違いない」と確信できるから、一切神愛として合掌して受けていくことができる。ね。土の信心。●③⑨
 昨日は、ある霊祭を奉仕さして頂きました。まあほんとに珍しい霊祭でした。娘さんが一人でお祭りされるとです。ほれで、楽人さんから先生方もやっぱ四名で、当たり前にさして頂いたが。だからもう、それでもう、娘さんが、お母さんの五年の式年祭を仕えたんですけれども、もうたいへんな賑やかなお祭りを仕えとる、という実感でしたかね。うん。
 それでまあ、おかげを頂いた中にも、そのことを神様にお礼をもうさして頂いとったら、その●②「月桂冠」という酒がありますが、その「月桂冠」というその字を頂くんです。ね。「月」ということは、これは人間氏子と、太陽を神様とするならば、お月様を人間を人とこう、私がいつも頂いておるんです。だから人間そのものにはその、光もなんもあるもんじゃないけれども、こちらの心が円満になり、円うなりゃ、いうならその太陽の光を受けて、それこそ昼を欺くような満月の明るさというものが生まれてくる。
 だから、三日月さんなら三日月さん型の光であり、心が真っ黒になって黒の闇であるならば、もうそこにはいかに太陽がそこにあっても、光を放つことはできない。だから、はあ、月というのは、人間氏子のこと。
 「桂」というは、木偏に土が二つ書いてある。ね。だから、木は心ですから、それこそ「人間は土から出でて、土に還る」と言われるのだから、「土」二つ書いてある。ね。だからその、中、中とてもやはり、土の信心でいくことがほんとうだということが分かる。
 だから、「真の信心」と例えば言うけれども、なら様々なことを言うことはいらん。「土から出でて、土に還る、その道中とてもやはり土の信心でいく」ということが真の信心ということになる。その土の信心が、今も申しますように、一切が神愛だと悟ることであり、一切を、ね、成り行きそのものを大切に尊ぶということ、そのことが土の信心に通じるのじゃないでしょうか。ね。
 この信心が最高だと。「冠」という字が書いてある。冠という字。ね。頭に頂くもの。この「月桂冠の信心が最高だ」というような意味の御理解を、その霊祭の中で頂いたんですけれどもね。●②
 そういう、もう最高絶対と言われるような信心を、身に付けさせて頂いて、それに徹していくことだと。そしてそれに、年季がいっていくところから、ね、自分が助かり、十人が助かり、百人が助かり、千人も万人も助かっていくようなおかげにもなってくるんです。
 ●②昨日、御霊様へお花、あんなことも私は初めてでしたけれども。一輪挿しの金盞花が一本入れてあった。それに、ちょうど茶葉のほうに入れてある。私、ご霊前に出らせて頂いたら、私、昔あの人魂というのは見たことがあるんです。こう尾をひいたようにね。それの小さいのです。ちょうどあの、シャボン玉のあのように小さい、それがやっぱ尾をひいて、それが無数にたくさん、その金盞花にかかっていくところを頂くんですよ。
 ●⑪私どもは、例えば心に拠り所というものがなからなければならないように、御霊様もやっぱり心の拠り所というものを求めておられるわけです。とくに御霊はそうなんです。拠り所を求めておる。●⑪それがその、金盞花にかかっていくところ。もうたくさんかかっていくところを頂いたんです。●②
 それで私はあの、ほんとに、今、今日、年季を入れとかなきゃならんということを今申しましたがね。あの、先日から、お知らせを頂いて、御霊様のお祭りの時には、お茶をお供えするのを久富繁雄さんが受け持たんならん、といったようなお知らせをご自分が頂いておられました。
 だから昨日も、その御霊のお祭りがあるとで残って、いつものように月次祭にいつもお供えがしてございましょう。あれが繁雄さんのお茶ですけれども。もうほんとにそれは、必ずあの玉露を美味しゅう入れて出されます。ですから、誰がお茶を出したというのは、いうならば一人の御霊様が頂かっしゃるだけじゃけれども。繁雄さんが一服のお茶をお供えされると、もうたくさんな、いうならば、その御霊の友達が百人おるとするならばね、百人の者に振舞えれる、接待できれるほどしのものだということを頂いておられたんです。
 ははあ、だから、金盞花というのはいつもあの、花でいろいろお知らせを頂きますよね。例えば、梅の花の時には久保山先生。あれは何ちゅうか。がじがじがするとあの、(わたせのに咲く?)何とかってあろうが。アザミの花を頂く時に秋永先生、というようにですね、こう花で色々、花知らせを頂いたことがあるです。そん時に、繁雄さんのことを金盞花で頂いたんです。
 ですから、この金盞花にたくさんな御霊がかかってくるということはね、久富さんのその真心のお茶に、たくさんな御霊達が潤うたということになる。それもね、ただ、頂くことに年季が入っておる。もう二十何年間、それこそ毎日のように私のお茶の奉仕をして下さる。そして、もちろんお茶も美味しい、また上手に入れてもあると。というものが合うて、いうならばたくさんの人に潤うという。
 ●③だから信心というものは絶対、だから、ほんとのことが、それをその、一年二年じゃなくてです、それこそ十年と続いたらと仰るようにその、年季を積んでいくということが大事だということが分かります。ね。だから、お互いその、成り行きを大切にするとか、一切が神愛だと分かったら、しかもその、分かるじゃないその、理屈の上で分かる。それがほんとに一切が神愛だとしてお礼が言えれるようなおかげを頂くために、もう限りない成り行きを大切にする事を日々繰り返し、もう土の信心に極まったという、その土の信心を繰り返し、日々私は、行の上に現していく生き方を身に付けておって始めてそれが、百人も千人も助かるというような力にも徳にもなるんだ、といったようなことを感じました。●③
 今、その(?)今日、今申します合楽理念とは、結局「一切を神愛と分かることだ」と。ならみなさんもそれは分かっておられる。分かっておるけれども、ほんとに神愛として有り難く頂けない。頂けないところを土の信心をもって修行をしていく。その内にです、いうなら、なるほど、一切が神愛だな。もうこの世の中には、悪魔もおらなきゃサタンもおらん。もうあるのは神様の愛の心の働きだけしかないんだ」という頂き止め方ができる。
 それにはね、「金光大神の言うことにそむかぬように」というのですけれども、ね、いらん他のことではなくて、ね、いうならば「成り行きを大切にする」「土の信心に極まった」という、そういう絶対のものを私どもの日常の中に、久保山さんじゃないけれども、頂き続けていく信心が大事だというようなことを思う。そこに年季が入ってくると、いよいよ垢抜けのした、ね、自分だけではない、一家だけではない、周辺にたくさんの人が助かってくるような働きともなってくるというふうに思います。
 今日は、えらい範囲が広うなりましたけれども、まあどっかよかとこだけ取って、ひとつ行の上に現して下さい。どうぞ。